太鼓腹の丘言う意味で、トルコ南東部の街、シャンルーフにあります。
シリアとの国境近くアレッポの北東にあたる場所と言えばお分かり頂けるでしょうか!
なぜ日本から遠く離れたトルコの田舎町などの話を持ち出したかと言うと、この地で発掘された遺跡群は実は大変なものらしいとわかってきたからです。
事の起こりは今から30年ほど前1人のクルド人農婦が、地面に突き出たの石を取り除こうとその周りを掘り始めました。
しかし掘ってもほっても根の深い石で、なかなか全部を掘り起こすことができません。
そのうち農婦はその石が妙に上にきれいな四角い形をしていることに気づきました。
表面についた土をかき落としてみるとその下から現れたのは見事な彫刻のギョペクリ・テペ石柱が姿現した瞬間でした。
丘の上の遺跡群
実はこの付近では1,960年代にもシカゴ大学とイスタンブール大学が共同で同様の遺跡の発掘を行っていました。
ですがその場所は長い間耕作地として使われ工作に邪魔な石は運び出されたり、撤去されたりして、遺跡としてはっきりとした形は保たれていませんでした。
新石器時代の遺跡とは推測されましたがそれ以上詳しい事は分かりませんでした。
それでドイツ学考古学研究所中心となってサンルウルファー博物館と共同で少し離れた場所を調査しようとしていました。その矢先に農婦がこの石碑を発見したのです。
付近には大規模な遺跡群が埋まってることが発見しました。
この遺跡群は標高800メートルの小高い丘の上に広がっており、一つ一つの遺跡の構造は石を積み重ねた壁で楕円形が開かれその中に何本もの石柱が立っているのです。
丘の高さは15メートル位先全体の直径は300メートルテニスコート3面分ぐらいに及びます。
年代的には最初に作られたのが今から1万2,000かから10000年位前で、その後何度か埋められたり、新しい建設が作られたりを繰り返し、最終的には紀元前8,000年頃に埋められたまま放棄されました。
最初に築かれた年代が4大文明以前なのでその頃の大規模遺跡として注目を集めています。
ハゲワシの赤盤
では遺跡の内容詳しく見ていきましょう。
現在この遺跡は宗教建築、神殿ではないかと言われており石を積み重ねて直径が30メートル前後、高さが2メートルほどの楕円形の壁が築かれています。
その中に大きいものでは高さ6メートル重さ20トンを超えるT字型の石柱が何本も立ち並び、いくつかの石柱は周りの壁に組み込まれています。
楕円型の建築物は、まだ地中に埋まっているものも含めると全体では20以上存在するとみなされています。
パっと見た形は石の壁で囲まれたサークルと言えば想像しやすいでしょうか!
この石柱はバルチャーストーンと呼ばれ、現在掘り出されているのは200本余り、注目すべきは多くの石柱の表面に絵文字や世界最古の象形文字の可能ありの動物が浮き彫りあるいは線刻されていることです。
動物の種類はライオン、きつね、牛、ガゼル、イノシシなどの哺乳類。
鶴、野鴨、ハゲワシ、といった鳥類。
蛇やトカゲなどの爬虫類。
昆虫や雲などバラエティに富んでいます。
動物の絵が多いのは、狩りの成功を祈ったものと思われます。
現在この付近は荒れ地になっており、遺跡が築かれた当時は広大な緑が広がっていた土地だと推測されます。
多くの生き物が暮らしていた生態系が維持されていました。
浮き彫りの外にはライオンや人間の石像、石造りのベンチも発見されています。
ここまでなら石を積み重ねて壁を築いて石柱に動物のリリースを掘るってどこの遺跡にもありがちですが、この石柱群にはもう一つ重大なことが記されています。
ヤンガードリアス期
ヤンガードリアス期はご存知でしょうか?
最終氷期期が終わりかとおもって、温暖化が始まったと思ったら、急激に寒冷に戻ってしまった現象で、今から12900年から15,000年前の間の北半球の高緯度で起こりました。
数100年続いたと言われています。
主にヨーロッパに大きな影響与えたのですが世界各地の山岳地域で氷河期の増殖。降雪量の増加。南極の寒冷化。スカンジナビア半島の森林のツンドラでの置き換わり、なども報告されています。
なぜ氷期期の終わりになって突然このようなことが起こったのか思い出してください。
6,500年前にもにも同じような起こったことを。
そうです恐竜絶滅の原因とされる小惑星の地球への激突です。
ヤンガードリアス期をもたらしたのも、この時と同じように小天体の地球への衝突などです。
ただし規模は恐竜絶滅器より小さかったのですが、その時地球は大彗星群の通過に見舞われ、そのうちの1つが北米大陸へ落下しました。
衝撃でチリが空高く盛り上がれられ、太陽光線を遮り、地球の寒冷化をもたらしました。
アメリカのサウスカロライナ州オクラホマ春ミシガン州カナダのアルバータ州などのいくつかの州で衝突時の高熱で形成された極小のダイヤモンド粒発見されています。
そしてこの彗星衝突が起こった時期は今話題にしているギョペクリ・テペの築かれた年代と重なるのです。
エジンバラ大学の研究チームによると、この彗星衝突の出来事はパンチャーストーンに刻まれていたと言われているのです。
地球を襲った彗星群はおうし座流星群とされ、この流星群は現在でも11月上旬に見えます。
現在牡牛座流星群は、エンケ彗星を母彗星群としていますが、これは約20,000年前ほどに爆発した巨大な彗星のかけらの1つなのです。
つまり牡牛座流星群の地球付近の通過がヤンガードリアス期の引き金ななったのですね。
ギョペクリ・テペを築いた人々
ギョペクリ・テペを築いた人々はどんな暮らしをしていたのでしょう?
これだけの規模の遺跡ですから気づくのにも何年もの歳月がかかるはずです。
また大勢の人が一致協力しなければ巨石を運んだり石柱を立てたりできるはずもありません。
そこには人々を集め指図する指導者となる人間が必要です。
これらの条件を満たすためにもすでに農耕定住生活を始めていたはずです。
不思議なことに、プリティ部の近辺には住居跡が見つからなかったのです。
現在ではこの遺跡群を作ったのは狩猟採集生活を送っていた人々であるとされています。
ひとつの仮説としてその彗星衝突による1時的な寒冷化が人類の農耕定住生活の意向に拍車をかけたのではないかと言うのです。
氷河期が終わり彗星衝突の直前までの温暖化の中東で広範囲に大麦、小麦が自生するようになりました。
狩猟採集中心の人類の、この野生の穀物を利用し定住化で歩み出していました。
そこで襲ってきた突然の寒冷化、増えていった人口養っていくために野生のものを利用していただくだけの穀物を自らの手で何とか栽培できるように工夫しました。
水をやったりよく実り強い種を取り出したりして、必死で知恵を絞ります。
これが農耕定住への第一歩だったからです。
もともと狩猟採集からの農耕定住への移行にあったのが彗星衝突の寒冷化で背中を押された形ですね。
農耕定住生活で多くの人が1カ所に集まって生活できるようになりました。
これは衆知を集められ、集団の知恵や経験を次世代に伝えられると言うことです。
定住生活は人類の進歩に計り知れない影響与えました。
そのきっかけとなった出来事を人々はギョペクリのテペの石柱にしっかり刻んだのです。
これだけでもこの遺跡の重要さがわかると言うものです。
トルコ国内には、ギョペクリ・テペの他にも、謎を秘めた石が眠っています。
この地域は最古の文明、メソポタミア文明を生んだチグリス川ユーフラテス川にあり、その関係にも関心が持たれています。
今後の研究によっては最古の文明の定義が変わる可能性があります。